真宗本廟報恩講
真宗本廟報恩講
大阪の高槻で周辺の皆様の葬儀や法事・法要をお手伝いしている是三寺では、それらを手掛けるのと同時に、浄土真宗ならではの報恩講も行っております。
報恩講とは、真宗の門徒にとっては一年を通していろいろある行事の中でもとくに大切なもので、宗祖である親鸞聖人の御祥月命日までの一週間に勤められる法要のことを指します。
報恩講では浄土真宗の門徒が、宗祖・親鸞聖人の教えに遇い、自らの依りどころを教えていただいたそのご恩に心から報謝し、その教えを聞信してともに念仏申す身となることを誓います。
報恩講についてもっとお知りになりたいとお考えになったら、大阪にある是三寺までお問い合わせください。
大阪の是三寺は浄土真宗のお寺です。
浄土真宗を開祖された親鸞聖人とはどのようなお方であったかを、簡単にご紹介させていただきます。
1173年に京都でお生まれになった親鸞聖人は、9歳になった頃に後の天台座主・慈円のもとで出家されました。
それ以来20年もの長い間に渡って、比叡山延暦寺で学問と厳しい修行に励まれました。
しかし親鸞聖人といえども、いくら学問と修行に励まれてもなかなか悟りを開く道を見出せない状態でいらっしゃいました。
そんな中、29歳になった親鸞聖人は延暦寺の仏教と決別し、新たな道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠られました。
やがて聖徳太子の夢告に導かれ法然上人と出会い、「ただ念仏もうしなさい」という教えに触れられます。
親鸞聖人はこの教えこそがすべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰いで念仏者としての道を歩みだされました。
その後約6年を法然上人のもとで過ごされました。
法然上人の教えには親鸞聖人の他にも多くの人々が帰依されましたが、興福寺や延暦寺などの強い反発があり、朝廷による弾圧を受けることになります。
死罪に付される者もいる中、法然上人は土佐(現在の高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流罪となりました。
この時、親鸞聖人は35歳。
5年を経て流罪が解かれた親鸞聖人は、法然上人の死を知り、京都には戻ることなく関東へ向かわれます。
そこで約20年滞在し、念仏の教えを伝えていかれました。
60歳ごろになって、親鸞聖人は関東から京都に戻られました。
長男の慈信房善鸞が関東で誤った教えを広めたため、親子の縁を断絶するということもありながらも、終生に渡って同朋・同行に手紙や書物を送り、最期まで念仏の教えを伝え続けられました。
1262年、親鸞聖人は90年の生涯を終えられます。
遺骨は京都の大谷に埋葬され、小さなお墓が建てられました。
このお墓が廟堂となり、やがて本願寺(真宗本廟)の御影堂へ受け継がれています。
大阪の周辺で浄土真宗の報恩講に行きたいとお考えの方は、ぜひ大阪の高槻にある是三寺がおつとめしている報恩講にご参拝ください。
毎年11月ごろにおつとめしており、ご参拝にあたってとくにご用意いただくものはございませんので、ご興味があればどなたでもお越しいただけます。
大阪周辺にお住まいで、浄土真宗の門徒として報恩講に参加したい気持ちはあるけれど、東本願寺まで行くのは難しい、という方はぜひ大阪の高槻にある是三寺の報恩講にお越しください。